PART17 「猫騒動で五体不満足に(その一)」
著者 小山清春

 我が家にロシアンという名の飼い猫がいる。アメリカンショートヘアという
二毛猫で目がまん丸く、よく猫の缶詰のモデルになっているあの種類だ。息子
が東京生活からUターンしてきた時につれて帰った。親猫は女優の三原順子さ
ん宅の飼い猫だった。なかなか利口な奴で、女房が猫の要求を察し「ロッツ」
と問いかけたりすると、それなりの鳴き方で反応する。生活範囲も屋内だけで、
年齢は人間でいえば60歳ぐらいのオス猫である。
しばらく前から、よその猫が遊びにくるようになり、オスなのかメスなのかわ
からないが、真っ黒な鼻の二毛の雑種猫だ。人間の歳なら30代半ばか。網戸
越しにお互いに意思の疎通を図っていた。
女房も、
「ロッちゃん、お友達がきたよ」
と呼びかけると、奥からサッと飛び出し、網戸越しに
「ニャーゴー!」
と挨拶をする。夜な夜な通ってくるところをみると、やっぱりメスなのか、人
間の世界でも通妻とかいう言葉があるくらいだ。

 ところが最近、険悪な状況になったようで、先日など内と外の網戸越しに、
唸り声とけたたましい鳴き声で大喧嘩になった。網戸がガチャガチャになるほ
どの爪のかけ合いだ。よほど相性が悪くなったようである。我が家の猫は、と
ても気高いから、「お前のような黒ブスはいやだょ、しかも好みに合わないね」
そこで大喧嘩にいたったわけである。女の場合、男同士より始末が悪い。いち
ずに思いつめるものだから前後の見境がつかない。陰険で嫉妬深く、しかもし
つっこいものだ。

 ある日、真夜中の二時ごろ、草木も眠る丑三つ時で、一番眠りの深い時でも
ある。われわれ夫婦の寝室は二階にあり、いつものように一緒にロッツも寝て
いた。その晩も猛暑だった。一階の部屋の一部が開けっ放しで無用心だったが、
そこから侵入したのだ。二階までひっそりと上がってきた鼻黒の猫が、階段を
上り切った踊り場で、突然、ロッツに襲いかかった。二匹ともすさまじい鳴き
声で咬み合っている。
 俺はとっさに飛び起き、電気を点ける間もなく、窓外からの薄明かりの中で、
鼻黒の奴の首筋のところを右手でガバッとつかんだ。相手も死に物狂いだから
人間様の俺の左手に咬みついた。奴の左顎の牙が、人差し指の第一関節にがっ
ちり食い込んだ。女房が点けた電気がその様を鮮やかに照らしている。階段に
血がしたたり落ちる。
 俺は一瞬手を離した。その隙に鼻黒の奴が、また喧嘩相手の我が家の猫に咬
みつきかかった。我が家の猫は図体こそ大きいが、年齢差60代と30代の違
いで咬み傷の痛手をこうむるかも知れない。
 再び、咬まれた左手で奴の首筋をつかんだが、いざというと猫一匹の死に物
狂いの力もすさまじいもので、今度は人間様の左手の甲に咬みつき、4本の足
の爪を最大限の刺にして、人間様の両腕にメチャクチャに爪を立てる。さらに
伸びた足の爪が、裸の俺の腹あたりまで引っかく。

  

 

 その間、女房は我が家の猫を
部屋に閉じ込め、ドアを閉めた。
これは正解であった。
 俺も奴の激烈な攻撃に一瞬手
を離した。鼻黒の奴は階段を
転がるように一階へ逃げた。
あとで探索してみると、奴の侵
入した一階の網戸の隙間から屋
外へ、ゆうゆうと逃げ延びてい
った模様である。
 この間の大格闘は、30秒間
くらいではなかったかと思うが、
一瞬のような気もする。


   

 我が家の猫のロッツは、部屋に閉じ込められながらも、盛んに「グアーグア
ー」と相手を威嚇する唸り声で、しばらく興奮していた。それでも咬まれた跡
もなく、まずは安泰と思ったが、5日間ぐらいまったく鳴き声が
出なくなった。
夜、熟睡のところを突然襲われ、いきなり声を張り上げたから、声がつぶれた
のかもしれない。それにストレスも大きかったのではと思う。これが傷でも負
えば連日の猛暑でもあり、動物病院行きになり挙句の果てに入院ともなれば、
我が家は年金生活者だから大なる家計の損失になったことと思う。たかが猫一
匹とはいかない。飼い主にとっては家族の一員みたいなもので、動物病院は保
険が利かない。全額負担となるから相当なものになる。その点、私の医療費は
お陰さまで共済保険が利いているから、猫様より安上がりになる見通しだ。

 両手が真っ赤で血だらけになった私は、台所で水道の蛇口をひねった。こち
らは同じ動物の蛇の口でも、咬みついたりはしない。新鮮な水が、吹き出た血
をサァーと洗い流してくれた。タオル二本で両手をつつみ、二階へ戻ってみる
と、階段には生々しい血痕がぽたぽたと落ち、階段の白っぽい壁まで血が飛び
散っていた。さらに猫の咬み合った時のぞくっぞくっと抜けた毛が、あたり一
面に散乱していて格闘の跡がすさまじかった。畜生!血痕と格闘の後を見て、
怒りがむらむらと込み上げてきた。
 興奮したロッツが部屋の外へ出たがるのを牽制し、扉を開けて中へ入ってみ
ると、女房は盛んに猫の感情を静めるように声がけをしていた。
 俺の血の方は意外にぴたりと止まった。元気いっぱいなB型の血液は、実に
新鮮で健全なのかもしれない。

 

 傷跡を冷やしながら朝を待って、休日診療所へかかった。丁度、担当が皮膚
科専門の先生で、曰く、「最近は、猫の雑菌が蔓延していて、抗生物質が効か
なくなってきている。熱が出てリンパ腺にでも入ったりすると入院することに
なりますよ。絶対かりそめにしないように」
更に、
「もし手首の動脈でも咬まれたら、大変なことでしたよ」
とまで言われた。
 無差別に必死に咬み込んできて、両手が血だらけになったのだから、手首の
動脈にあの鋭い牙が食い込むことも十分にあり得たことだ。本当に「救急車」
となったかも知れない。しかも手術にでもなったら、と思うと震撼が走った。
「今日からしばらくアルコールは、慎んでください」
という。これには参った。毎日、ビール一本か酒2合は飲んでいる。今は暑い
盛りだ。
 看護婦さんは、
「傷が治るまでは止めてくださいね!」
―――慎んでください、と―――止めてくださいね!とでは、ずいぶん厳しさ
が違う。まぁ、この際だからしばらくやめてみようと決心した。

 その日は、夕方から女房の運転で妻の実家へお盆礼に出かけた。熱が出てき
た39.2度。アイスノンで冷やすが下がらない。そこで内側から冷やそうと
カキ氷を食べたが、食べ終わったところで突然ブルッと悪寒がきた。やばいぞ、
これぁ、バイ菌が全身に回ったかなぁ。

 それでも翌日、熱が上がったまま出勤。なるべくなら熱は職場で下げて、自
宅ではゆっくり快適に過ごす、のがわたしのモットーだから忠実に従う。
 仕事にひと区切りつけて、休診担当の先生からの紹介状を持って、市内槍町
にある内外科クリニックさんへ。月曜の午前は混んでいる。初めての医院だが、
さわやかでなかなかいい雰囲気である。「これなら傷のほうも意外にはやく治
るなぁ」


 医療は、患者と医者側の信頼関係である
から、患者として安心感が診療を大きく左
右する。

 まず傷の手当てに当たってくれた看護婦
さんは吉嶋さんといって、丸ぽちゃの美人
である。ますます傷ははやく治るような気
がしてきた。しかし内心ではなるべく長く
通院できるように、ゆっくり治ってくれな
いかなぁ、とわがままな感情になったのは、
本当である。他にも吉井田さん、住吉さん
と三人の看護体制であり、連携がいいよう
だ。
 しかし白衣の天使ではない。ユニホーム
はうす水色だもの、青衣の天使というので
はないか。ラベンダー色だったらラベンダ
ーの天使。黒色だったら黒衣の天使か、こ
れは函館のトラピスチヌ修道院の修道女の
イメージになる。それじゃピンクのユニホ
ームの場合、桃色の天使ということになる
なぁ。これはいい。どちらかというと私は
こちらの方が好きだね。しかも毎日つぎつ
ぎと日替わりでユニホームの色が変われば、
虹色の天使となり夢いっぱい。
 
 しかもナイチンゲールの精神が、ここの三人の看護婦さんの血にみなぎってい
るね。ナイチンゲールさんはイギリスの看護婦さんで、クリミア戦争に際し、多
くの看護婦を率いて傷病兵の看護にあたり、クリミアの天使と呼ばれた。どんな
女性だったのだろうか。一度写真ででもお会いしてみたい。色白丸ぽちゃか、オ
ードリー・ヘップバーンかエリザベス・テーラーのような感じだろうか。それと
もマリリン・モンローかな。でもみんな大好きな女優さんだね。
 1853年トルコ内の聖地エルサレムの管理権をめぐって、ロシア・トルコが
開戦。翌年、トルコに荷担したイギリス・フランス・サルディニアが出兵。やが
てパリで講和条約が締結。戦後ロシアでは大革命への道をたどってゆくことにな
る。このように歴史のある精神がクリミアの天使なんだねぇ。
 本当にここの医院さんには、美人の天使がいっぱいだね。

 いよいよ初診対面に先生が登場。
「どうしました?」
 なかなか優しそうでいい先生だ。いろいろと傷のことについて説明してくれる。
ファーストインスピレーションは、いい先生である。ほっと安心する。でも困っ
た。これならば明日にでも完治しそうだ。早く治ってしまえば、せっかく出会っ
た三人のナイチンゲール精神。虹色天使との関係はどうなんだ。私は人懐っこい
方でいつでも一期一会を大事にしたいと思っているのだが。

 二日目にほぼ平熱まで下がり、医療的には見事に的中。精神的には職場へ出た
ことで熱が下がったのでは、と勝手に思っている。
 指先から4.5センチぐらいを除き、両手が包帯でぐるぐる巻きになっている
が、かろうじて箸を持って大好きな手打ちソバは食える。ボールペンやパソコン
も打てるからまずまずだ。ところが体のどの部分であっても、どんな小さな傷で
あっても実に具合が悪いものだ。まさしく、五体不満足・・・!
 
次回につづく・・・
 
『著書「お色気ちょっぴり 肩のこらない話」から』