昭和7年、おあきが山形第一高等女学校に入学する3年前のことである。
第10回オリンピックがロサンゼルスで開催された。地元山形女子師範学校
から柴田たか選手が陸上200メートルに出場した。このことがおあきの心に
大きな感動を呼び、走ることへの意欲をかきたてられた。
さらに4年後の第11回ベルリンオリンピックでは、水泳200メートル平
泳ぎ決勝に出場した前畑秀子選手がドイツのゲネンゲル選手と、地元の大声援
の中で接戦を演じた。
その模様は地球の裏側から実況中継され、ラジオを通じて日本に送られてく
るザアザアと雑音にまじった音波は「……前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!ガン
バレ!ガンバレ!日本ガンバレ!あと40!あと40!前畑ガンバレ!ほんの
わずかリード!……」、その熱戦の様子が伝わってきた。「あと4メートル、3
メートル、2メートル、あっ前畑リード!勝った!勝った!勝った!前畑が勝
った……」
このとき日本は真夜中になっていて午前0時が刻々と迫る。「スイッチを切ら
ないでください。スイッチを切らないでください……」、NHKの河西アナウン
サーの声で始まったこの放送は、日本中が手に汗をにぎり、興奮のるつぼと化
した。
世界に肩ならべようとスポーツ面でも力が入った。
軍事面で無理に背伸びしようとする日本は、おあきが高等女学校へ入学した
この年、世情はいっそう厳しさをましていった。国内では軍事クーデター二・
二六事件が起こった。
翌12年、中国で盧溝橋事件がぼっ発し、日本全権はロンドン軍縮会議から
脱退。国際連盟から日本の行動を非難する決議が採択された。
国際的にけん悪な状況のなか、昭和14年、純日本製飛行機「ニッポン号」
が世界一周に成功。当時世界最高水準をいく機体で、ほっそりと洗練された姿
から貴婦人とも呼ばれていた。この計画に難色を示していた海軍であったが、
最終的には海軍次官山本五十六中将の決断で実現した。
「ニッポン号」は三菱重工製の双発機で乗員7名。8月26日に千歳空港を
飛び立ちアメリカノームへ向かった。その後アメリカ各都市を回り、南米、ス
ペイン、イタリア、カルカッタ、バンコク、台北を経て、55日目に実飛行時
間194時間、距離52,860キロメートルを飛行して、羽田空港に銀色の
美しい機影をあらわした。この間、故障もなく、その信頼性を全世界に知らし
めたものである。
この成功に国中がどよめき祝いにわきたった。
(神風号と上部機「ニッポン号」)
昭和15年に日独伊3国同盟が調印され、一段と軍靴の音が高まってきた。
さらに全国の市町村に「隣組制度」が設けられ、巷(ちまた)では、「頻賓…
…トントントンカラリンと隣り組……」の唄がながれ、「新体制」の流行語まで
うまれた。
大蔵村肘折からも出征兵士が送り出されるようになり歓呼の声に見送られ、
彦一の馬車で新庄駅まで運ばれていった。
(つづく)
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