おあきが肘折から青田の実家へもどり、山形市内の第六国民学校へ
勤め替えとなって2月が過ぎた。昭和17年5月末のことである。
新たに赴任した学校の校長先生は、軍事教育に厳格で他の先生方も
ピリピリしていた。おあきも身を引き締めて臨んだ。
勤め上がりのバスの中や枕辺で、肘折の子どもたちの顔がつぎつぎ
と浮かび、ガキ大将のヨザエモンやサツ子がビッキをワシづかみにし
て窓から放り出したときの様子を思い出したりしては涙をながした。
日本軍は2月にシンガポールが陥落し占領、南方方面での連勝にわ
きあがった。
真珠湾攻撃から5カ月後の6月5日、空母4隻、軍艦90隻からな
る海軍大機動部隊でミッドウェー島を攻略するために挑んだ。これに
対しアメリカ軍はミッドウェー島の基地や空母3隻のほか23隻の軍
艦などで迎え撃った。
アメリカ軍にとってミッドウェー島はハワイ防衛の拠点であり、ホ
ノルルから1930キロメートルに位置する環礁の島である。
日本はこの島を占領したときには『水無月島』と命名し、領土化し
てただちに国土体制を敷けるよう郵便局長や多くの官吏を艦隊に同行
させていた。
いよいようす暗い午前4時30分、ミッドウェー島の北西450キ
ロメートルから第一攻撃隊110機が発艦した。これを待ち伏せてい
た敵戦闘機は24機でしたが、実戦経験の豊富なゼロ戦隊は十数機を
撃墜、地上飛行場や施設へ投弾した。
しかしアメリカ軍はすで日本軍の暗号を解読しており、早暁から哨
戒機を飛ばして南雲中将率いる機動部隊を発見していた。敵空母部隊
からはわずかな時間差を経て140機が発進、波状的にくり出してく
るアメリカ軍の攻撃に、日本軍は空母に爆撃を受け、経過とともに劣
勢をよぎなくされていったのである。
このミッドウェー海戦の3日間わたる双方の戦果は、日本軍は空母
4隻沈没、その艦載機253機、重巡洋艦1隻沈没、ほか軍艦2隻大
破、熟達した搭乗員など3500名の戦死者を出した。アメリカ軍は
空母1隻、駆逐艦1隻、戦死者307名であった。
大本営はこのミッドウェー海戦の戦果を「米軍の空母ホーネット、
エンタ−プライズの2隻を撃沈、味方の損害は空母1隻、重巡洋艦1
隻沈没、空母1隻大破」と国民に発表。天皇陛下に対しても歪曲して
報告するようになった。
ラジオ発表では放送前後に戦勝のときは陸軍部は「陸軍分裂行進曲」、
海軍部は「軍艦行進曲」がながれ、玉砕など悲壮な戦果は「海ゆかば」
をながした。
この発表ではラジオから勇ましく軍艦行進曲がながれると、家族は
いっせいに仕事の手を休めラジオにかじりついた。
おあきや父庄蔵など家族は、兄清人の安否が気がかりでならない。
「清人は、どこで、どんな戦いをしているんだべね」
母おちかは心配で居ても立ってもいられない。庄蔵にしても心はお
だやかでないのだが、
「これ!おちか、落ち着け、よく放送を聞いてみろ、海軍は大きな戦
果を挙げているんじゃなえか、清人は立派に戦っているんだ、間違い
ねえ、間違いねえ」
念を押すようにして自分に言い聞かせ、心を落ち着かせようとして
いる。
清人からはまったく音信のない状況では、今回のミッドウェー作戦
に参加しているのかどうかすら定かでない。
翌日の新聞には海軍部が発表したそのままを、大々的にわが軍の虚
偽の内容が紙面を埋め尽くしていた。
翌日、おあきが登校すると校長先生から、
「吉川先生、兄の清人君は立派な戦果を挙げましたね、いや、おめで
とう」
「はい、いや兄はこの作戦に参加しているのかどうか、音信がないも
のですから…」
「いやいや、このミッドウェー海戦は連合艦隊総力ですから、間違い
ありません」
「母は、毎日朝はやくに新山神社へ武運長久と無事の帰還を念じ、願
掛けしているんです」
「そうでしょう、そうでしょう」
肝いりの軍事教育熱心な校長先生は悦にいっており、全校生徒にも
このミッドウェー海戦の戦果を報告するよう指示があった。
校長先生の甥も陸軍へ志願兵として赴いており、おあきとは軍人を
もつ同じ身内として親近感をもって激励してくれていた。
(つづく)
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