PART74 「のんきな殿様とその女房26」>>>「文化婆んちゃんとハイカラ爺つゃま」(2)
著者 小山清春

 お年寄りの知恵を探りながら、昔のことを調べ研究することで、新しい知識
や生活の技を会得する温故知新(おんこちしん)は大事である。
 昭和7年、日本橋の大手デパートである白木屋の4階、オモチャ売場から出
火、大惨事となった。当時、女性みんながノーズロースだったから、着物の裾
の乱れを気にして飛び降りられなかったために、14人の店員が焼死。残念な
ことに、これを教訓に女性の職場では、ズロース着用の自覚を促したという。
 昭和11年になると二・二六事件が発起。次第に暗い時代へと引きずり込ま
れてゆく。やり切れない世相の中で、猟奇な「阿部定」殺人事件が発生した。
 定は、吉蔵と情痴を繰り返してゆくうち、情交中に、首を絞めたり緩めたり
しながら、無上の歓喜にのめり込んでゆくのである。その日、夜半に淫弄をか
さね、吉蔵がのぞむとおり腰ひもを緩めることなく、快感絶頂のまま死に至り
しめたのである。朝方まで添い寝したが、可愛いくって男のものを弄ったり、
自分の前に当ててみたりした。このままにして去ると、湯灌のとき、お内儀さ
んが触れるに違いないから、と切り取ってハトロン紙に包み帯の間にはさんで、
ふんどしや下着とともに肌身に付けた。血のりで吉蔵の左腿に「定 吉 二人」
と書き残した。逃亡中にも吉蔵のものを愛撫しながら、何度か死のうと思うが
死に切れず、2日後、旅館「品川屋」の部屋で捕まったのである。
 後に「一番大事なものだから、誰にも触らせたくなかった」と供述。
当時は暗澹たる時代背景の中で、女が好きなものは好きと鍾愛(しょうあい)
し、素直に愛情を貫き通した定に、世間は共感しホッとした者もいたという。
 定と関係した男たちによると、極快感のとき震え出し、一時間も失神した。
欲情したときも淫水が多く、病気ではないかと驚いて精神鑑定させたという。
 定は控訴せず懲役6年が確定し、栃木刑務所に収監。模範囚で丸5年後(昭
和16年)に出所した。所長の配慮で「吉井昌子」と名を変えて娑婆へもどり、
終戦後、結婚して平和な生活も素性が知れ崩壊してしまった。
 その後は、逆に知名度を利用して、温泉女中・バーやおにぎり屋を経営。昭
和34年に女中頭のとき、優良従業員で表彰されてもいる。
 事件の後、現場の旅館「満佐喜」や、逮捕されたときの「品川屋」は大繁盛
した。大阪のあるバス会社では、「切符を、切らせてもらいまぁす」というと、
お客がいっせいに笑うから、恥ずかしく耐えられないという尾びれまでついた。
昭和46年に姿を消した後は消息不明。現在、生きていればまだ98歳。
 もしかすると、のんきな殿様いきつけのスナック『さだ』で、カウンターの
隣の席で、身近に飲んでいるかも知れない。
 ところでのんきな殿様が気になるのは、事件証拠の重要物件はどうしたんだ
ろうか。今でも、アルコール漬けにでもしてあるんだろうか。


 巷には、このような風評に滅法強く、生活様式からこどもの躾、風聞にもく
わしく、井戸端や囲炉裏を囲みながら、話題豊富な明治や大正生まれの人たち
がいた。俗にいう“文化婆んちゃん”である。
 このようなお年寄りから、人生の豊かな尊い知恵をいっぱい引き出し、語っ
てもらおうかと思い、見渡すと我が藩の遠縁筋に文化婆んちゃんがいた。
「婆んちゃん、しばらくだな。何かトントン昔(民話)語ってけえろや」
「こら清春、この頃、本を書てるそうだな。オレのこと書くっていうのか」
 しばらくぶりの懐かしさもあってか、喋るは喋るは、とても八十九歳とは思
えない賢女ぶりである。しかも近所の爺つゃまや婆んちゃん達で、都都逸やっ
ていると言う。
 おもむろに正座すると、
『むかしのむかし、しゃぶると甘い、杏子(あんず)だったど―――今梅干し』
『むかしのむかし、みずみずしかった、堀たて大根―――今たくあんだ』
『むかしのむかし、花嫁道具の、ダブルベッドも―――今古戦場』
総入れ歯だから、白く見事な歯並びで、笑顔がいい。
「婆んちゃん、他に都都逸仲間で、爺つゃまはいねぇのか」
早速、電話をかけた。
「久右衛門さん、どうせ暇だべ、ちよっと来いや。トントン昔を取材すんだど」
ほどなく、派手なシャツに真っ赤なネクタイを締めた大柄な爺つゃまが来た。
「なんだや、派手なネクタイまで締めてよ」
「んだって、取材って言うだべ。映りいいようにカラーにしたのよ」
 爺つゃまは、TVの取材と勘違いしている。むかし馬車牽きだったという“
ハイカラ爺つゃま”である。ハイカラというのは、衿の丈が高く、西洋風を気
取り、流行を追って新しがる人をいうのである。
 やっぱり正座したかと思うと、体に似合わず素頓狂(すっとんきょう)な声
を振りしぼり、都都逸を唸りはじめた。
『むかしのむかし、小便のあとに、眠っても起きてる―――今寝たきり』
『むかしのむかし、トロロ芋でも、今白子ふいた―――蒸かし芋』 
『むかしのむかし、戦場へ行くと、精出し役立った―――今降参』
『むかしのむかし、寝たきり老人も、バイヤグラでよ―――今起ききり』
 このハイカラ爺つゃまと文化婆んちゃんのトントン昔は、長い長い一生を、
一言で語る民話だった。
 
 爺つゃま曰く、
「むかしなら姥捨山行きだ、今幸せだ。長生きした分、儲かったと思っている。
ほんとうは、ここの文化婆んちゃんが好きだった。ところがオレの友達の野郎
のところへ嫁いできたんだよ。あいつは酒も飲まねぇ、タバコも吸わねぇ、女
も買わねぇ、んだから早く行っちまえやがった。オレはさびしくってよ。今頃
になって、この婆んちゃんを抱いても、喜ばせられねぇべ。昔は戦場に行って、
精を出して、がんばって役に立ったもんだが、今じぁ、戦場に行く前に降参し
てるもな。バッハッハハ」
 屈託のないさわやかな笑いに、傍らで文化婆んちゃん、にこにこしていた。

                               (2)の了


『著書「お色気ちょっぴり 肩のこらない話」から』