PART86 「のんきな殿様とその女房38」>>>「冥界の閻魔(エンマ)さま7」
著者 小山清春

 女は三途の川を渡った後、初七日から七日ごとの審理をくぐりぬけ、
五七日の閻魔王の裁所前に、ようやくたどり着いた。そこには豪華な
高大な門があり、二重の屋根の両端には魚の尾の形をした鴟尾(しび)
が飾られ威厳を保つ。さらに長々と延びた土塀には、真っ赤な血色の
甍(いらか)が幾重にも連なる。重厚な門構えの左右に、樹齢何千年
もの金木犀が枝をひろげ、橙黄色の花から芳香を放つ。この花はしお
れることはなく何千年も咲きつづけている。
 閻魔王付きのそば仕え二人は、人相とも鬼ともつかぬ面構え。直立
不動の姿勢で門番の任にあたっている。門前には広大な蓮の池があり、
池畔には樹齢何百年もの百日紅(サルスベリ)が見渡すかぎり林立し、
鮮紅色の花は一年中なえることはない。
 この蓮の池にようやくたどりついた亡者たちは、幹に寄りかかる者、
寝そべり虚ろな目で蓮の花をながめる者など、多くの老若男女が薄衣
すらまとうことなく蠢(うご)めいている。そこで五七日の審理の呼
び出しを待つのである。
 女もその中の一人。これから先の不安もあったが、「ついにここま
で来てしまった」と安堵の思いがした。
 隣の幹に寄りかかった亡者は微動だにしない。よく見ると両眼は空
洞で蛻(もぬけ)の殻になっている。そばの亡者にたずねてみた。
「この亡者は何としたんだろうね」
 先に来ていた亡者は、気だるそうに身を起こすと、
「……娑婆へ戻り、怨念をはらしに行ってくる、とか言っていた」
「怨念を?」
 自らの意に反して命を奪われた亡者は、憎しみと怨みを込めて殺め
た者の枕元に立つ。怨念をはらしに娑婆へ戻って行きたい亡者は、閻
魔王の裁所に申し出て許可を得なければならない。裁所では病気で亡
くなったり、自ら死を選んだりした亡者には、決して許可することは
ない。許可証を手にした亡者には、うす絹の白装束が渡され、地蔵菩
薩にすがりながら導かれて行くことになる。多くの仏様の中でも、お
地蔵さまだけが、この世とあの世とを自由に往き来ができ、苦しんだ
り悩んだりしている者を救ってくれる。
 怨念で煮えたぎった女の亡者は、三途の川の橋を渡るわけにはいか
ない。この橋は一方通行であるから地蔵菩薩と宙を渡って行くことに
なる。歩くことのない女は、足だけを蛻(もぬけ)の殻に残し出かけ
た。
 怨み女は、夫とその情婦から酒に混入された致死量の睡眠薬を飲ま
され、熟睡のまま海の沖深く沈められて死に到った。殺人ではなく単
なる失踪者として扱われていたから、夫と情婦はまだ捕まっていない。
 いよいよ娑婆へ戻った女は、自分を殺した男のもとへといそぐ。そ
の部屋にたどり着いたのは夜半のこと、わずかに射しこむ月明かりに
夫とその情婦の姿がうき上がる。同じ寝室でしかも愛用していた同じ
布団にしけ込んでいた。あんな不細工の情婦のどこがいいのか、激し
く悦楽情交のあと、ぐっすりと白河夜船、乱れた夜具。  
 それを天井の隅から、じぃーと見下ろした。すぐにでも掴みかかり
たい衝動をこらえ、機会をうかがった。
 と、情婦がトイレへとたった。
 怨み女は夜具のすき間から、すうっと入り夫の傍らに枕添いをした。
両手でやんわりと首を絞めた。深寝入りの夫は夢の中、情婦との感覚
で抱き返してきた。首の絞まりで息苦しくなった。少しずつ眠りが浅
くなってきた。抱いたはずの女は肉感がなく、ひやりと冷たい。眠り
がさらに浅くなり、目を覚ました。
「ひやぁ!お、おまえ…」
 ぬけるような青白い顔に髪が乱れかかり、死んだはずの女房の顔が
間近に。
「た、た、たす…、…」
 布団からはね起き、声がもつれて発せない。
女は部屋の隅にすっと退く。「苦しめ!もっと苦しめ!…」、目の奥
底からの怨念たぎる冷たい視線で、じっと夫を見据えた。
 夫はわなわなと震え、口から泡を吹き出し、言葉にならぬ奇声を発
した。
怨み女は亡者の霊力で、床を北むきに枕直しした。
と、情婦が戻ってきた。
「あんた!どうしたの!」
 男は床から後ずさり、驚駭(きょうがい)のあまり目が突起し、全
身が震え奇声を発し、部屋の隅を指した。
 怨み女は、すうっと欄間のすき間から消えた。
 情婦も部屋の隅に視線をうつしたが,何も見えない。
「あんたぁ、何もいないよ。しっかりして!」
 男は、恐怖心から体がすくんで動かない。
「で、で…出た……」

 怨み女が娑婆から戻り、蓮の池そばの幹に寄りかかった蛻(もぬけ)
の殻に戻ったのは朝方近くであった。
「娑婆へ行ってきたそうだけど、会ったのかい?」
「会った…憎くって憎くって。夫は狂らん寸前になった。気が狂えば
殺人犯で捕まっても無罪になることもあるから、その手前で抑えてき
た」
 怨み女は、少しは気が晴れたのか表情が和らいだ。
 この話を聞き、ともに三途の川を渡るはずだった男への恋慕から、
もう一度抱かれたい衝動にかられた。しかし、自ら死を選んだ亡者に
とって許可されることではない。それでも下北半島の霊場『恐山』へ
出かけると、亡くなった人の魂を降ろしてくれる『イタコ』の口寄せ
で逢えるかもしれない。
「私はね、二世を契っていっしょに三途の川を渡るはずだったが、あ
の人は来なかったの。…無性に逢いたいの」
「私は会ってきたけど、生前の男に逢いたいなんて止めたほうがいい
よ。……あの不細工な情婦の奴め、私の大事に使っていた布団に、よ
くも無神経に、いけしゃあしゃあともぐり込んで男に抱かれていやが
った。…刑が確定したら、呪い殺してやる」
「私は、あの人を怨んでなんかいないの、ただ恋しくって逢いたいだ
け」
「やめた方がいい。今ごろ別の女を抱いて、いけしゃあしゃあとして
いるよ、男なんて勝手気ままなんだから、やめなさいよ、往生したほ
うがいい」
 女はそれでも恋慕のおもいを押さえ切れなかった。
 恋慕の女と怨念に煮えたぎった女とが幹に寄りかかり、互いの胸の
うちを明かしあった。
 二世を契った男は今どうしているのか、公金横領で逮捕され、排気
ガス中毒の回復のため仮入院しているに違いない。あぁ可哀想に、抱
き寄せて介抱してあげたい。さめざめと流す悔し涙を真っ白い一枚布
でおさえた。
 怨み女は、同じ寝室でしかも愛用の布団にしけ込んでいた不細工な
情婦めが憎い。それをいい気になって、ひしと抱きしめ、女の善がり
声に感情を昂揚させ、締めつけられた快感で絶頂にいたる夫の表情を
思うと、悔しさと恨みが激しく沸きあがった。
「よーし、また行く!」
 閻魔王の呼び出しまであと二日。娑婆へのパスポートが切れぬうち
に、もう一度行ってくると言う。今度は冥界に棲む蛇を携えてゆくこ
とにした。この蛇は目の底に不気味な光を宿し、暗がりになると細長
い体皮がにぶく光る。
 地蔵菩薩にみちびかれ、ふたたび娑婆へも戻ってみると、夫とその
情婦はすでにあの家にはいなかった。あの後、恐ろしさのあまり、直
ぐに車で塩原温泉郷に近い別荘へ逃避するため、東北道を北上し西那
須野塩原ICで一般道から国道400号へ。6月の午前4時、あたり
はまだ薄暗く車はほとんど走っていない。気持が急っていて運転がお
ぼつか無い男。千本松牧場近くを走っているときであった。突然、左
側に人の気配を感じた。ボーン、撥ねたな、「逃げて!」女はとっさ
に叫んだ。そのままスピードをあげた。
 以前の怨みをはらしに出かけてから3日目がすぎた。
 怨み女は霊力を駆使し探しあてたその別荘は、しばらく使うことも
なかったが、子供のころの想い出多い懐かしい馴染みの館。すうっと
屋内に入ってみると、二階の南側に面した部屋で、わずかな月明かり
に浮きあがった夫とその情婦の寝姿。男のユカタは汗ばんではだけ、
女は真っ新(さら)の紅い長じゅばんから左の乳房がこぼれでて、そ
こを男の右手がまさぐるように触れ、ふたりは寝入っている。枕元の
畳には、缶ジュースがころがり、拭きとったティシューが散らばって
いる。
 部屋の高窓のところから、じぃーと見下ろす。嫉妬心と憎しみで腸
が煮えきりかえる。携えてきた蛇を、枕元の畳にそうっとはわせた。
 耐え忍び、しばらくふたりの寝姿を見つづけた。何どきか過ぎた。
 情婦の眠りが浅くなり、床の上にすわったが、まだ半ば眠りの中に
いた。長じゅばんの胸元をあわせ左手で押さえ、畳の腰ひもに右手を
のばした。つかんだ。腰に結ぼうと持ち上げた。冷たくぬらぬらした
感触に、
「ひやぁ、」
持ち上げた腰ひもを投げすてた。するすると部屋の隅に投げつけられ
た蛇は、暗がりの中で、鋭い目の底から不気味な光を放ち、細長い体
皮がにぶく光り出した。女の驚愕の声に、男は飛び起きた。女は男の
胸にしがみつくと、全身が痙攣し、ガタガタとふるえ、脳頭からしぼ
り出すような奇声を発し、卒倒した。男は、卒倒した女を抱いたまま、
あまりの不気味さに、全身がふるえている。部屋の隅から視線をあげ
ると、高窓のところに、うっすらと青白い女房の顔が浮かんだ。
 怨み女は、このあと情婦の首に蛇を巻きつけ殺そうと思ったが、狂
人となってしまっては怨念がはれない。はやる心をおさえ、高窓の隙
間から消えた。
 夫とその情婦は、ひき逃げでつかまり、殺人犯で逮捕されるのは時
間の問題となった。


                          (つづく)
 


『著書「お色気ちょっぴり 肩のこらない話」から』